大判例

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東京高等裁判所 昭和42年(う)1988号 判決

被告人 叶訓治

〔抄 録〕

本件控訴の趣意は、東京地方検察庁検察官検事河井信太郎の控訴趣意書に記載されたとおりであり、論旨は原判決の量刑不当を主張するものである。

しかし職権をもつて調査すると、記録によれば、本件公訴事実は

被告人は自動車運転の業務に従事しているものであるが

第一、公安委員会の運転免許を受けないで、昭和四一年五月一七日午後七時一〇分頃、東京都足立区保木間町二一四七番地先道路において普通貨物自動車を運転し

第二、前記日時場所において、前記自動車を運転し、千住方面から草加方面に向い進行中、前方横断歩道の直前付近に先行車両が停止し、その停止車両の前方を右方より左方に向う横断者の出現が予想される状況にあつたから、同横断歩道の直前で一時停止して同歩行者の有無を確認して進行すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り、漫然時速約一〇粁で進行を続けた過失により、折柄右横断歩道上を前記停止車両の前から左方に向い横断歩行してきた市川やい子(当三八年)に自車右側面部を接触させ、よつて同女に対し全治約三週間を要する顔面打撲、下歯五本損傷等の傷害を負わせ

たものである

というのであり、原判決は、被告人の司法巡査、検察官に対する自白調書等を証拠として右公訴事実と同旨の無免許運転および業務上過失傷害の犯罪事実を認定し、右公訴事実に対する被告人及び弁護人の、本件事故発生当時自動車を運転していたのは松岡哲雄であつて、被告人はその身代りであるという主張については、右主張にそう被告人および証人松岡哲雄、同叶ゆき子、同叶ひとみの各原審供述の信用性を否定することによりこれを排斥した上被告人を罰金三万円に処していることは、判文上明らかであるところ、後述するように、本件事故の犯人は運転免許を有する松岡哲雄であり、被告人はその身代りであることの蓋然性が強く、原判決は事実を誤認したものとして破棄を免れないものと認められる。

すなわち、原審がその信用性を否定した前記各供述中、当時六歳の幼児であつた被告人の長女叶ひとみの供述を除くその余の被告人、松岡哲雄、及び叶ゆき子の各供述の要旨は、当時被告人と松岡哲雄とは、被告人の妻叶ゆき子の実家のある仙台で本件貨物自動車を使用し、共同で廃品回収事業を営むため、本件自動車に出産の間近いゆき子と長女ひとみとを同乗させ、松岡が運転して三島から仙台に赴く途中、原判示日時場所において本件事故を起したものであるが、被告人らは右事故のため松岡の運転免許が取り消されて予定していた仙台での仕事ができなくなることをおそれ、事故発生の直後右現場付近において被告人が松岡の身代りとなることを打ち合わせ、ゆき子の諒解をえた上警察官の取調に対し当初から、いずれも被告人が本件自動車を運転して事故を起した旨虚偽の供述をして来たものであるというのであり、これに対し原審は、右各供述の信用性を否定すべき理由として、(1)身重の妻と幼児をかかえ、かつ運転免許を有しない被告人が、独身でかつ運転免許を有する松岡の身代りとなるということは常識に反すること(松岡の免許の停止または取消をおそれたということは、その理由とは認め難いとする。)(2)本件事故発生直後の短時間内に身代りの相談をする心理的時間的余裕があつたどうか疑わしいこと(3)ゆき子に対し、被告人が身代りとなる旨を告げたのが被告人と松岡のうちいずれであるか、またその旨を告げた場所がどこであるかにつき被告人、松岡哲雄及び叶ゆき子の各供述にくいちがいがあること(4)被告人が身代りになつたにしては、あとに残つた松岡、ゆき子間にそのことについての話合いがなく、ゆき子の態度は平静にすぎると認められたこと(5)三名いずれも事故発生後間もなく行われた警察官の取調に対し被告人が自動車を運転中、事故を起した旨互に符合する供述をしていること(6)加害車両が事故発生のため現場で停止した直後、その運転席の方から当時の被告人の服装に似た服装をした人物がおりてきたのを目撃した者がいることをあげ、さらに、示談金、保釈保証金の金策について松岡が努力したことはうかがわれるが、そのことは、被告人が身代りとなつた旨の供述の信用性を認めるべき理由とはなりえない旨判示している。

そこで当審の事実取調の結果をもあわせて、右判断の当否につき考察すると

(一) 被告人および証人松岡哲雄、同松岡ちよい、同叶ゆき子、同叶敬の各一、二審供述、本件被害者との示談書(二通)などによれば、被告人と松岡との関係は、五、六年来の知合であつたが、本件事故の数か月前より三島において本件自動車を使用し共同で廃品回収事業を始め、さらに仙台で右事業を継続しようとしていた程度のもので、それも本件により立ち消えになつたにもかかわらず、松岡は本件に関し、被告人のため一審弁護料、保釈保証金、示談金、一審判決による罰金相当額のほか被告人留置中の妻子の生活費などをも支弁したこと

(二) 証人松岡ちよい(哲雄の母)の一、二審供述によれば、同人は本件事故の翌日、哲雄から同人が本件事故を起したのであるが、被告人がその身代りとなつて逮捕されている旨をきき、哲雄に対し当時から再三警察に自首するようにすすめていたこと

(三) 松岡哲雄に対する前科回答書、運転免許証(写)によれば、同人は昭和三七年三月大型免許を受けたが、昭和四〇年一月一一日三島簡易裁判所において業務上過失傷害罪により罰金四万円に処せられたほか、昭和三九年三月以降四回も免許停止処分を受けていること

などの事実が認められる一方、もしも被告人が犯人であつて松岡が犯人でないとすれば、同人が本件事故数か月前からの共同事業者という程度の関係にすぎない被告人のために、何故前記のような重い経済的負担を甘受したほか偽証罪の制裁を受ける危険を冒してまで被告人が身代りである旨虚偽の供述をしなければならなかつたかということや、哲雄の母ちよいが何故ことさら我が子に不利益を証言をしてまで被告人を庇護する必要があつたかということについて、その疑問を十分に解明できる資料が存しないのであつて、これによつてみると、前記認定の(一)乃至(三)の各事実は、むしろ被告人らが松岡の運転する本件自動車に同乗して三島から仙台に赴く途中に起した本件事故により、自己の免許が取り消され、予定していた廃品回収の共同事業の遂行が不可能となることをおそれた松岡が、被告人と相談し、ゆき子の諒解をえた上被告人において松岡の身代りとなることとし、警察官の取調に対し、当初からそれぞれその旨虚偽の供述をしたものであるという被告人、松岡哲雄及び叶きよ子の各原審供述(同人らの各当審供述もほぼ同旨である。)、ひいては、この点に関する被告人・弁護人の前記主張を一応裏付けるに足りるものと認められ、本件事故の犯人は松岡であつて、被告人はその身代りであることの蓋然性は相当に強いものといわなければならない。

ひるがえつて、このような見地から、原審が被告人・弁護人の主張を斥けた前記理由を検討すると、その(1)は、松岡に前記のような前科ならびに免許停止の前歴があることに徴すれば、本件事故によつて運転免許が取り消され、共同事業の遂行が不可能になることをおそれた同人が、被告人に自己の身代りとなることを依頼し、被告人も同様の思惑から浅慮軽卒にこれを承諾したものと考える余地があり、同(2)は、本件事故発生後警察官の現場到着までには五、六分の時間はあつたと認められるから(松岡哲雄の一審供述)、その間に身代りの相談をなすことは必ずしも不可能ではないと考えられ、同(3)は、身代りの相談が事故直後の動揺した心境の下で突嗟の短時間になされたとすれば、ゆき子に対し身代りとなる旨を告げたのが被告人と松岡のうちいずれであるか、またこれを告げた場所がどこであるかにつき三名の供述にくいちがいがあるとしてもあながち不自然ではなく、同(5)も、被告人らが身代りの相談をした上警察官に対しことさら虚偽の供述をしたとすれば、三名の供述が当初から被告人が犯人であるとすることにおいて符合するのは当然であつて、そのことは前記各公判供述の信用性を否定すべき理由とはなし難いとも考えられるのである。以上のように、この点に関する原判示(1)乃至(6)の事実には、本件各犯行が被告人の所為であることを疑わせるものがないではない(とくにその(6)にいわゆる目撃者とみられる証人栗原理介、同篁寿美子は、当審においても一審とほぼ同旨の供述をしている。)が、いまだ本件事故の犯人は松岡哲雄であり、被告人はその身代りにすぎないということの蓋然性を覆えして被告人を本件の犯人と断定するには十分ではないと認められる。

しからば、被告人・弁護人の前記主張を斥けて被告人を有罪と断定した原判決は、事実を誤認したものであり、右誤認は判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、検察官の控訴趣意に対する判断をなすまでもなく、破棄を免れない。

よつて、刑事訴訟法第三九七条第三八二条により原判決を破棄し、同法第四〇〇条但書により本件について更に次のとおり判決する。

本件公訴事実は、冒頭に記載したとおりであるが、既に述べたとおり、本件は犯罪の証明が十分ではないから、同法第三三六条後段により被告人に対し無罪の言渡となすこととして主文のとおり判決する。

(遠藤 吉田 菅間)

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